桜井真樹子の
活動報告
works

桜井真樹子、坂本美蘭、中西レモンによる「変成花神楽」鼎談続き)

(変身と旅-異界との往還)

中西:なにか、神楽について可能性とかありますかね?僕今回の宣伝用にちらっと短い文を書いたけど、神楽は少なくとも予祝みたいな要素を持っているわけですね。予祝というのは、民俗学でよく言うじゃないですか、神様自体は白紙みたいなものだから、予めこちらからこのようにしてくださいねっていう農耕などの一連の運行を模して、お手本としてまずその姿を見せて、それにならって神さんがその年を好い年にとして行ってくれるようにしてもらおうとする願いの表れなんだって・・・あれ、何しゃべろうとしてたんだっけ?(笑)・・・で、そこには必然的に理想的な空間と言うのが描かれる。理想的な生活とか、理想的な季節の運行・循環が描き込まれていて、それはいうなればユートピアですよね。想像可能なユートピアの姿が恐らくは読み込まれているんだと思うんだけれども。たとえば坂本さんの創作にこれをあてはめて考えると、まぁ祭文自体が典型的にそれを示しているんだろうけれども、神楽なんかのもっている基本構造みたいなものに則っているなと思う所もある。まァ、桜井さんの今回の「丹生の翁」、あの若返りの話もそうですけれども。坂本さんは「牛頭十字架変身島」の中で、自身の性同一性に関するテーマと言うのを盛り込んで、それがどのように解放されて、それがどのように社会の中で受け入れられるべきかとか、自分の住める社会はどういう社会であるべきかとかみたいなものを擬古的な文章の中でなんとか読み込もうとしているわけじゃないですか。あれって祭文の基本的な姿勢だよね。恐らくは。願文というかさ。そういうものを集合的にいろんな芸能を併せてスペクタクルに展開したのが恐らく神楽の一つの側面だとも思うんだけれども。そういう意味で今回掲げたテーマの典型的な作業になってると思うんですけどね。まぁ、坂本さんのこういった作業は今に始まったものと言うわけでもないんだけれどもね。

桜井:うん。

中西:坂本さんが宗教芸能へ関心をもってからずっとそうだったんだと思うんだけれど。2000年ぐらいの「身の灯明」ぐらいからね。

坂本:まぁ、自分自身の変身と言う点では接点があるとは思いますが、その頃と今とは違いますね。

桜井:あの、今回の「牛頭十字架変身島」の中には「十字」というのが何回も何回も出てくるじゃないですか。その十字と言うのは十字架というようなキリスト教的なニュアンスみたいなものがあるじゃないですか。

坂本:まぁ、十字が十方へと変成するというのがまずあるんですけど、十字架のその十字も、それはある種の異質な異教として外からくる寄りもの・漂流物として物語の中に登場するわけだけれども。

桜井:まぁ、ジャンヌダルクもジル・ド・レーなんかが出てくるのもそうだけれども、まぁ、今は皆キリスト教を知っているけれども、村の人は土地の神や何とかというような仏像を見たら拝んだりしている中では救われないと言ったら変だけれども、新しいパワーを持って新しいユートピアを築きたいというのが、十字架と切り離せない「十字」という言葉が出てきたときにどこか納得させられるところがあるんですよね。それは、キリシタンと言う人たちって、室町のころに京都とか浅草とか、都会で爆発的に増えるんですね。

中西:浅草?

桜井:浅草もキリシタンがいっぱいいったって。

坂本:そうそう。

桜井:なんで京都でキリシタンが大流行りしたかって言うと、皆駆け落ちしたり、年貢納められずに都会に出てきた貧しい人達が集まって来ていて、でも自分たちではそれまでの御主人様が「拝め」っていって、全員が「ははー、年貢が納められますように」って何の疑いもなく拝んでいたのが、年貢が払えない状態になった場合には、もうこの神様や仏様は拝まなくてもよくなっちゃって。そうして救いを何処に求めたらいいか?というのもなくなっちゃって、難民として京都にたどりついたときに、たとえば外国人宣教師みたいな人が説くキリシタンの話の中に、自分のよりどころとなる新しい思想を求めたというのはすごく想像できるんです。普通の人が神仏に拝むというよりももっと、自分はこういう所から性の転換をしたいんだとか言うような、普通の人の悩みじゃなくって、こういう風に物を変えるためには、十字架のような異教のものが入ると言うのがしっくりくるように思えるところもあって。出雲阿国も首に十字架をぶら下げながら新しい踊りを始めるとか、なにか既存の神仏を信仰する階層にはいなかったような人たちが見つける新しい宗教であるとか、そういうアンタッチャブルな人達に手を差し伸べた新しい救いの象徴のようなものが、今回の十字には重なって見えてくるところがある。

中西:なるほど。新しい土地に入ってきた新しい救済の姿を求めると言うキリシタンの話は面白いですね。坂本さん、あの、十方とも言ったけど、あの十字と言うのは何処から出てきたの?

坂本:十字は高橋睦郎が、『倣古抄』っていう詩集の中で1969年に書かれた「魂の宴」って言うのがあって、そこに変成女子と言うのが出てくるところがあって、以前そういう研究をちょっとやっていたこともあって興味を覚えたんです。そこで出てくるのがジル・ド・レーとジャンヌ・ダルクの十字架で、そこら辺と習合させて、変成男子即変成女子、海中からの寄りものが出てくる物語として書いたんだけれども。十字架って言う部分では、さっきの桜井さんからのキリスト教の話とつなげていくと面白いなと思います。

桜井:最初、これを読んだ時、波の何とか・・・ってあって、三島由紀夫の『英霊の声』って読んだことある?神道チックなもので、それはね戦後書いたものだって言うんですけれども、石笛(いわぶえ)を吹いていたらその人が神掛って、一挙に風景が戦前の日本に戻って来て、海の中で戦死者ですよ、英霊が次々に立ち上がってきて、最後に彼らを導く白い馬に乗った天皇が波の中から現れて、そしてその英霊たちを天に導き給うと言う話があって・・・

中西:そのイメージが坂本さんの祭文から喚起された?

桜井:いや、だからね、三島由紀夫だったら天皇が現れて国家神道みたいなところへ行っちゃうのに、坂本さんは十字とかジャンヌ・ダルクとか、もっとこう自由な、京都のキリシタンが持っていたようなイメージを持ってるんだなぁって。

坂本:あぁ。それは面白いねぇ。

中西:あの、海から現れたものが牛頭天王だというのはどういうことなの?

坂本:だから牛頭天王の祭文もいくつかあるんだけれど、そのなかでも「牛頭天王島渡り祭文」と言うのがあって・・・

中西:それは何処にあるの?

坂本:それは奥三河かな。

中西:牛頭天王が島を渡る海の祭文が山奥にあるの?

坂本:そうですね。疫病を・・・

桜井:面白い。疫病?

坂本:そう、疫病を「つしま(津島)」に送り返すと言う。

中西:「つしま」って対馬?というか、とにかくどっかの島、外の世界ということですよね。そこに疫病を
坂本:だから、まぁ、牛頭天王と寄りものというのもある種の接点があると言うか。寄りものは漂流物の事だけれども、たとえば青が島という一番日本で祭文が残っている地域と言われているところがあって、八丈島よりもさらに沖なんだけれども、ここでは寄りものが島に漂着すると、島では非常に変身したものと考えられている。祭文自体もある種ここでは寄りものと言うこともできるんですよね。

中西:それは島の外から来た何かということ?まぁ、島の中になかった何かとか、あったものでも、島の外から来るものとなるとちょっと神がかった何かになっていると。

桜井:畏怖されるものになっている。

坂本:そうそう、そういうものとして考えられている。

中西:海を隔てて変身するんだね。

桜井:「蛭子」が「恵比寿」になって帰って来るような。

中西:そういえばあの恵比寿っていうのは何なんですかね。関西が信仰の中心なのかな。

桜井:だって淡路島から蛭子さん流されたんだもの。漁民が信仰したんでしょう。あれは未熟児みたいなものとか生きて産まれなかったものが流されて、返ってきたのが恵比寿さんなんでしょ。
中西:そう?じゃぁやっぱり一度海という外の世界に行って帰ってきたものが神に変身してると。

桜井:あ、福神漬けってそう。水子供養で流したきゅうりとかを水辺の人が拾って傷んでるところを切って、きつい味付けをして福神漬けとして売るの。この福神は福の神(恵比寿)の考え方と重なってる。

坂本:福神漬けって、そっからでてきてるんだ。

中西:やっぱり外の世界とか、異質の空間へ行って戻ってくる。

桜井:それはイニシエーションもそうだよね。ネイティブ・アメリカンでも男の成人式と言うと、一度森の中をさまよって、狩りをして、ずっと回って帰って来るのもあるし、動物を殺して狩猟者としての一つの最初の体験をして戻ると、一人の男性・成人として祝われるというような。子供から大人になる。

中西:アボリジニにもね。

坂本:狩猟は供儀と関係があるんですかね。椎葉神楽だと動物を神への捧げものとするとか。

中西:椎葉の場合は成人式とはたぶん関係はないんだと思うんですけど、まぁ、狩猟と成人に関する通過儀礼と神楽のような祭りとが関係のあるところとないところとあるのかもしれないけれども。とにかく外の世界を通過することによって子供から大人になると言った具合で一つの変身がおこると。で、成人式とはまた別のものだけれども、こういう考え方はお祭りの中でも物語をなぞる疑似体験を通して魂の救済なんかが図られるところでも見ることができると。

坂本:たしかに成人式とはまた別の形で通過儀礼としての側面は、「浄土入り」などにみられると思いますね。

桜井:まぁ、成人式のような通過儀礼と言うよりも神楽は村の中でのリフレッシュに近い事なのかもしれませんね。

中西:とにかく一回は仮想的な空間だとか、通常の秩序じゃない世界に一度行って、また通常の秩序の世界に戻って来ることでリフレッシュ。

桜井:あの秩父まつりって有るじゃん。山車が出て12月の、大騒ぎする。あのときでも、中学生とか高校生が「じゃぁ明日秩父まつりだから全部茶色に染めてください」とか言って、金髪に染めようが、ピアス開けようが子供は、何してもいいわけですよ。お祭りになったらすごい色の髪の毛とかお化粧したりとかして皆出てくるんだけれど、それは全然いいの。で、お祭りが終わったら髪を黒に戻してくださいとかいったり、ピアス取りに行ったりして次の日に学校行けば、誰もまったく何にも言わない。だからたった二日金髪にするためになんだかもったいないとも思うけれども・・・

中西:なるほど、それはハレの異装と言うやつだね。

桜井:うん。だから一回そういう風にして、やっちゃいけませんとか、不良ですとか何とか言ってるようなすべての格好が許される空間になる。

坂本:昔は学園祭とかありましたね。校則とかあっても学園祭の時にはそれをやっていいって先生が言う。

桜井:それはハレですよね。

坂本:そういう見方もありますよね。

中西:なるほど、リフレッシュする機能がお祭りの中にあると、ね。

桜井:でも、けっこうな人がリフレッシュしようとしてDランドとかハワイとか行くじゃないですか。パックツアーとかに行って楽しかったって終わってるわけですよね。「え、そんなことで帰って来たんだ」って思うでしょ。

中西:だからそこですよ。仏教の言葉だと思うけれども、自力的な方と他力的な方があるんですよ。いや、確かにね、以前はそういうことへ反感もあったけれども、やっぱりちょっと違う。と言うのは、各人が育ってきたそれぞれのリテラシーを形成する環境とかがあって、それぞれに異空間やユートピアの体現・想像の仕方があるわけだから同じように一元的な見方はするべきじゃないんじゃないかと思う。いや、桜井さんの言おうとしていることわかりますよ。なんでパックにまとめられたものを享受して満足できるのだろうかとか、ね。

桜井:ただ、彼らは彼らで、ここで我々が神楽を作ろうとしていることに対しては、なんてバカなことをして自己満足に陥ってるんだろうか・・・っていう見かたをされると思うんですよ(笑)。

坂本:というか実際神楽を継承している人たちが、だいたいDランドやハワイにあんまり境界がないと思っていて、実際三沢山内花祭の時に金髪に染めてる人が舞を舞ってたりしますから・・・

中西:いや、それは各地で神楽などを継承している当人たちは、Dランドやハワイとかパック旅行を面白いとおもって行くでしょう。でもね、今仮にここで私たちが神楽が面白いと思って、神楽の外部者から神楽の面白みをなにかと考えながら新しい創作に必然性や楽しみを見出したりすると言うこととそれとはちょっと違うことなんですよね。

桜井:ちがうねぇ。

中西:いや、こういう言い方をすると何を世間体を考えてるの、とかって言われるのかもしれないけれども。あるいは偉そうなことをと言うのもあるかもしれないけれども。でも、やっぱり私たちがこういうことを楽しんでいるというのもね、ちょっと違いますよ。まぁ、この三人の中でも神楽や祭文、翁なんかに何を見出そうとしているのかと言うのもちょっと違うわけでしょうしね。

桜井:うん。だからその人達は義務で、神籤(みくじ)で決まったことは絶対的なことがあって、その村の抑圧とでもいうものの中で一生懸命神楽はやらなきゃならないということの中でやっているということもあると思うし、それをやらなかったら・・・

中西:いやぁ、やらされるっていうのはほんとに嫌だろうし、こんな古臭い地味なことなんてって思ったりするような村のお祭りの舞なんかよりはエグザイルみたいな踊りを踊りたいでしょう。でも、中にはこれがほんとに面白い!ってやってる人もいたりしてね。こういう自主性と言うのは特殊で、伝承という受動的な枠を超えてある種の名人になるかもしれないんだけれども。こういう人たちの間にも、また、この芸能面白いなと思って見に行っている人たちともそれぞれに意識のずれがあることは確かですよね。

桜井:だからまぁ、反対にいえば、彼らにとって、これは自分たちの村のもので、その行事をよそから来た人には見せなくてもいいし、見るな、とも言えるものでもあるんですよね。それで外部者というのは何の責任も負わずに面白いと思って、見て帰れる、という気軽さも当然あるわけだし。普段していることがある中で、その時には私たちのDランドとして神楽が解放してくれるという見方もあるわけですよね(笑)。

中西:なるほど、神楽は僕たちにとってのDランドだったのか!(笑)
坂本:向こう側に行くんじゃなくって、こちら側に新しい神楽の中にあるトランス的な要素を導入した創作があるって言うことが新しい部分って言うか。逆に向こうから出てくる要素を取り入れつつも一線を置いて新しい事をやろうというか。

中西:確かに各地域で保存継承していこうという中では新しい事と言うのはなかなか生まれてこないですよね。保存しなきゃいけないという意識が強くなると割に先細りしがちだ。

桜井:まぁ、どんな保存協会だってみんな踏襲を目指してやってるわけだから。だから、彼らにとっては義務感かもしれないけれども、こちらではたとえ、すっごくつまらないものだとしても、ア、たぶんこれはこういう面白さがあったからじゃないか?って、自分たちなりのDランドを作ろうとしていることなのかもしれないですよね。

中西:そう。各地の伝承団体の中にでも民俗芸能がかっこいいと思ってやってる人達は必ずいるんですよね。たとえば岩手の黒森神楽なんかは神楽師のお兄さんたちを見るためにマイクロバス仕立ててファンのおばちゃんたちがついて行くとかね。確か広島の方でもスモークモクモクたいたり、面を派手に工夫してみたりして神楽の演出が大変でしょ。まぁ、これは神楽師というような半宗教者のエンターテイナーで、定住的な伝承と一緒にはできないところもあるには有るんだけれども。こういう場合にはサービスと言うものを考えるから、今回の私たちがやろうとしていくことよりももっとDランドのそれに近いエンターテイメントとして、東京で今回の試みから創出とか考えようとしているものとはまた違うファクターというのかな、方向性を持っての展開をしているだろうね。

桜井:何となくわかったのは、とにかくDランドのようなユートピア?というものを全員が欲していると思う。だからDランドへ行き、ハワイに行くんだけれども、それがアイデンティティを持たずに、というか、さっき出た言葉だと「自力」?自分が納得できる面白さ。他力ではなく、自分が楽しめるユートピアを作るためにこういう苦労をしてるんです、ってことだよね(笑)。たとえば「花の本地」って、花祭りを継承している人でオープンマインドな人だったら、「へぇ、おもしろいね」って言ってくれるかもしれないけれども、私が「マンハッタン翁(創作能)」って書き方をしたら、まず能楽協会から「まず能という言葉は能楽協会以外の人間はつかってはいけない」と言われる。それに加えて「翁は650年以上女がやってはいないから、まず翁を女がやること自体が翁ではない」とかですね。もうすごいですよ。

中西:まぁ、それは芸能者が持っている特定の芸能・演目に対する歴史的プライオリティーと言うのはたしかに主張できるとは思いますね。そしてそこに厳密な固有性とでも言うべきものはあるでしょう。あるでしょうけれどもまったくやっちゃいけないと言うことではないね。ないけれども、それをやるって言うことは色々な意味でかなりエネルギーが必要なことだっていうことだね。

桜井:だから、そのくらいもともとこれを継承してきた人が、自分たちの行ってきていることを脅かされるというか、お株を奪われるように思っちゃうくらいのものを作るくらいの自立的なエンターテイメントであるべきだし、またそれを作るくらいの気概でなくてはならない。作る上ではそれだけ、なんていうのかな・・・

中西:そうねぇ、たたかれますよ。確かに歌舞伎でもなんでも先行する芸能のパロディーの様なものを足がかりにしながら貪欲に独自の様式を気付き上げて行くということがエンターテインメントの中には有るわけだけれども、そのかみはやはり先行芸能を以てして枝分かれした芸能はそのヒエラルキーの下辺にどこか耐えなくてはならない時期があったりするわけですよね。

桜井:うん、だから、自由をクリエイトすると言うことは都会でというか、だから、今やろうとしていることはクリエイトを最優先すればこそ、Dランドに行って楽しむことに甘んじていられない。クリエイトを棚上げしたら、きっとパックツアーのハワイ旅行で十分に楽しめる私が生まれるはずなの。でも、なんかクリエイトが芽生えちゃったってことなんじゃないですか(笑)。

中西:まぁ、何か自分でやらなきゃ気が済まないって人が集まってるってだけなんじゃないですか。教室ですわってられないとか(笑)

桜井:そう(笑)

中西:まぁ、それは何処か発想自体が非定住的なんですよ。きっと。いろんなレベルがあるとは思うけれども、与えられたものの中で楽しみや満足を見出して行くっていうのは、決まった、限定の有る空間の中でどれだけ楽しみを見出しながら生活を全うしていけるかとかっていう定住的な生活の発想だとも言える。反対に神楽を新たに創作の糧にしていくということは、神楽が生まれたその原初的な部分から、既に継承されて定住的なパッケージされていったものとは違う視点でこれの可能性を問題化して行こうとすることですよね。娯楽としてと言うのは又別だと思うんだけど・・・

桜井:娯楽ではないと思うね。

坂本:楽しみじゃない。

中西:単に楽しみじゃないもんね。これはどっちかって言うと願立や祈願とでも言うべきものじゃない。新しい社会を私は希求していますというような、こういう世界が来てくださいと言うことが入ってくるわけじゃない。入って来るっていうよりも、そういう創作の仕方をしていえるよね。少なくとも坂本さんが自分の体について読み込むと言うのはね。桜井さんが新しい創作をしているというのも、モティーフは古に材をとったとしても、単にその演目をなぞっているというのとは違うものね。

桜井:うん。その新しいメッセージというか、「マンハッタン翁」であったら、現代の貧しい移民の老人たちを取り上げたものなんですよ。あれは移民のアフリカ系とヒスパニックと日系それぞれの背負ってきているバックグラウンドがマンハッタンと言う所で、難民とかああいう人たちは貧しいから、そういう問題を一つの舞台にするためには、日本の翁と言う原初的な処に求めると、それが表現できたというものなんです。

坂本:あれは実話が入っているんですか?

桜井:「マンハッタン翁」は、私、ニューヨークに行っていた時に、日系二世のジョージ・ユザワという人を取材して、彼ら戦前の日本人は、西海岸から戦時中に強制収容所に行って東海岸に皆来ているから、その歴史とか、戦後どうやって日系人が、貧困時代の日本人に救援物資を送ったとか、アメリカでの日本人差別からどのように民事裁判で人権を勝ち取ったかとかを取材して、その人の人生を翁の物語にした。で、私がアフリカ系アメリカ人のヒップホップをやっている、当時「ヒップホップ・クイーン」と言われていた人の家庭にホームステイしていたとき、彼らの祖先が、アフリカから奴隷としてアメリカに来たとか、どうやって今の自分たちがあるかと言うことをいってくれたこととか、そういったことすべてが「マンハッタン翁」に入っている。これはアメリカ人が反論するんだけれども、マンハッタンってところに行くと、綺麗なお爺さんとか綺麗なお婆さんとかがいないの。日本で田畑耕しているお爺さんとか綺麗でしょ。ああいうタイプのお爺さんがいないから、どうしてなんだろう?と言う所から作っていったんですよ。その土地とか自然の恵みを受けていると言う人が日本ではいるじゃないですか。それがもしかしたらマンハッタンという土地の恵みとかがまだ確立してないのではないかって。だからマンハッタンの移民で貧しく死んで行ったお爺さんたちが翁となって、マンハッタンの貧しい人々を祝福するっていう。これからマンハッタンのそういう貧しい人々は祝福されて、土地の恵みを受ける人に成るっていう気持ちで作ってる・・・

坂本:へぇ、わかりました。

中西:はぁ、予祝だ。

桜井:そう。それを筋立てするのには、日本の翁って言う原初をとらえて筋立てするのが私には有用なものだったっていう。坂本さんの話も、翁の話もやっぱり生きながらにして変身すると言う話をするところでは共通しているところもありますね。

中西:最初に三人で集まった時も、たとえば桜井さんが話された、ユートピアの話ね。花鳥図というのはその象徴図像なんだって。そういうこととかね、我々はユートピアをどう描けるでしょうねぇ。いや、今日は桜井さんの「マンハッタン翁」の話を聞けたのもよかった。なんだかこういう話をするのはなかなかいいねぇ(笑)。来年度あたりはちょっと三人でなにか作品の創作をしましょうよ。坂本さんも桜井さんも変身にまつわる創作がこれまであるようだから、そういうもので何か創作ができたら面白いんじゃないかしら。とりあえず今回はまずその前哨戦として我々の行く先をことほぐということでね(笑)。雑多な感じは残しておきたいですね(笑)。どうぞよろしくお願いします。

桜井:はい(笑)。

中西:どうです坂本さん。

坂本:やってみましょう(笑)。


桜井真樹子
桜井真樹子
作曲家・ヴォーカリスト(天台声明)・パフォーマー(白拍子)
天台宗大原流声明を中山玄晋に師事。龍笛を芝祐靖に師事。1994年ACC(アジア文化交流基金)、2000年ヘレン・ウォーリッツアー財団の奨学金を得て渡米、ナバホ、ホピ、タオス・プエブロの音楽を研究。2009年イスラエル政府の奨学金を得て、イスラエルにてイエメン系ユダヤ人の歌謡「ディワン」をギーラ・ベシャリに師事。
平安時代の女性歌謡と舞踊の復曲と創作活動、「水猿曲(みずのえんきょく)」「蓬莱山」「しずやしず」「鬢多々良」「丹生の翁」などを発表。
創作能の原作・脚本「かぐや姫」(2006)「マンハッタン翁」(2007~2013)「水軍女王」(2009)「刀塚」(2010)。こけし浄瑠璃「はなこのおむこさん」(2011, 2013)、影絵芝居「水の女神」(2006)、語り物「足の凍ったおじいさん」(2006)の原作・脚本を手がける。
坂本美蘭
坂本美蘭 SAKAMOTO Miran
(ピアノ/現代朗詠/六弦改造大正琴/作詞作曲)
東京では、1998年からピアノと歌によるパフォーマンス的演奏活動を行っている。
2000年度から10年間、大学研究生等を得ながら、中部から西日本の祭と神楽の中にある祭文と朗詠を現代的解釈から研究。2010年度から、横断領域的な越境と変身をベースにした現代朗詠ソングライター的な演奏活動をソロ演奏の他、様々な分野のアー ティストとのコラボレーションを通じて行っている。サウンド面では、2012年からピアノの他に改造した六弦大正琴を導入している。そのような主な活動に、自主企画公演の「光線虫類」(2012)「漂流二成」(2013)、さかた氏企画の「Bricolage」 「Parforming Art Squre」「画廊舞~有限|夢幻~」(2013)等に、サウンドパフォーマーとして出演している。
トランスセクシャル/トランスジェンダー女性当事者。
中西レモン
photo:坂田洋一
中西レモン/大谷将
ジムプリチウスもしくはぶらぶらしてる人
絵描きか坊さんになりたい→表現素材はどのように獲得されるべきかへの関心→パフォーマンス・アクションと近世絵師の生活資料への関心・・・と、伏線に民間の歌や語りものを引きずりながら、ぶらぶらしてきました。近年は専ら盆踊りを足掛かりに人々が唄・踊りを楽しみ伝承した場を訪うのが楽しみとなっています。展示『掛唄』(2002年秋田・県指定無形民俗文化財金澤八幡宮伝統掛唄行事での展示)、舞台企画『ちょっとした舞・踊の祭典 畳半畳』(2004年~東京他)など。CD解説『カストリ音頭』(2012)、『河内音頭夢幻 初音家-浪曲音頭の誕生-』(2013)

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