桜井真樹子の
活動報告
works

桜井真樹子、坂本美蘭、中西レモンによる「変成花神楽」鼎談

2013.11.12 於スタジオ美蘭
「牛頭天王、翁、花の本地、花田植え・・・欣求浄土。凡夫と生まれて無明の浮き世のしがらみに沈み行こうとする時、その節目に人の若やぎ、生まれ変わろうとする願いは、さらに死の断絶の彼方よりもなを、今ここより地続きの此岸の楽土を希求する。
今日今日、楽土をいかなる姿に想像してゆけるのだろうか。その姿を音声にと転換し読み上げる時、予祝はいかなる世界を未来に託すのだろうか。神事・民俗芸能をあしがかりとする創作の神楽的集合上演としての試み。」(中西)
変成花神楽
photo:坂田洋一

神楽ってなんだろう

中西:まず神楽と言うことを今回一応のテーマとして掲げたんですが、しかしこの神楽と言うものはどうとらえたらいいでしょうかね。最初に神楽と言うものがあってこれに近づけると言うよりも、色々な演目を集めたので神楽的な集合体として言ってみたということもあるんですけど。

桜井:神楽は結局組曲の様な形をとるわけだし。高千穂なんかは13時間とか15時間くらいやるのかな。


坂本:通しで行うので一番長いとなると奥三河の花祭りですね。もちろんいざなぎ流なんかは何日間と言う規模のものもあるけれども。

桜井:あれは一連の話の流れがあるの?

坂本:花祭りはいろいろな流れのものが入っています。翁もはいっているし、大神楽からの流れの浄土入りもはいっているし。色々な流れのものが折衷して入っているような感じですね。

中西:花祭りを通して何か一連の物語があると言うわけではなくなっている?

坂本:そうですね。

桜井:じゃぁ、組曲と考えることもできるね。

中西:たとえば板橋に神楽の古い形を残しているとかいわれる田遊びと言うのがあるじゃない。あれは種をまいたり代掻きしたり、一年の農耕を模した一連の流れがあって予祝になっている。そういう一連の流れがあるというよりも、色々な物語とか芸能が花祭りには入ってきている状態なのね?

坂本:花祭りだけ非常に特殊な祭りで、大神楽で何年かにいっぺんにやっていたものを年に一回、祭りと言う形でミニチュア化してやるようになって、その分熊野詣でとか、諏訪神楽とか、翁とかいろんな要素が折衷して入っている。

桜井:まさしくフェスティバルだよね。いろんな楽団とか、いろんな人たちが来てそこで自分のやっている演目を上演するような。

坂本:熊野も入っているし、諏訪も入っている、翁も入っている。元は大神楽の浄土入りの儀式があって、これがミニチュア化されて、その一番中心的な演目が「花育て」という演目で、これは2006年迄三沢山内に残っていたと。熊野詣での金剛杖を持って回るというのが、花祭りでは杖を持って釜の回りをぐるぐるまわる。

中西:これは今回やる坂本さんの編曲の「花の祭文」ですか?

坂本:そう。源流としては熊野詣の浄土入りがだいたい基本で、熊野詣に行って発心門や涅槃門など四門をぐるぐる回って、最後に油戸門からでて牛王宝印を授かると。この油戸門というのが一応無品というか上品即下品とか、空とか覚とかいったような中間領域の様な一番差別を滅した地点でもあるわけです。

中西:ということはヒエラルキーとか分別差別がない状態ね。

坂本:そう。脱構築の地点というか。ここで牛王宝印を授かると言うので、牛王宝印そのものにもその辺の意味があるんだと思います。

中西:その門と言うのは実際熊野にある門なの?
坂本:かつてあった門。

桜井:あの、熊野の本宮から西回りで中辺路をずっと行って、最後にお寺にたどりつくところですね。坂本:そう。

桜井:私あそこずっと歩いたよ。門みたいなものは今はなかったと思うけれど、あったかもしれない。ある地点にお経を納める宝篋印塔みたいなものはあって、それで本宮から胎蔵を抜けると言う感じですよね。歩いたよ。死ぬかと思ったけど。すごい長い距離で、途中一泊したもの。熊野を歩こうみたいな雑誌があって、おばちゃんが桜の下でニコっとした写真があるから、まぁ、そういう道なんだと思うじゃないですか。そう思って行ったら桜の咲いてる時期なのに誰も歩いていない(笑)。

中西:それは古道とかいうやつですかね。

桜井:そう。皆は確かに大きなバスが通る路があって、そこをビューっと行くんだけれど、路を歩いている人は誰もいない。健康な人でもあんなしんどいの。昔天皇が歩いたっていう、もうほんとに細い道をつま先で、枝につかまりながら必死になって歩いた(笑)。あそこを歩くと要するに解き放たれるわけ?

坂本:その四門を回って最後の地点の油戸門を抜けると新たに生まれ変わると言うのがありますね。その不二の地点というのは関係性を変えると言うように。疑似再生の生まれ変わりの場が設定されている。

中西:その熊野をめぐる死と再生の円環の一連の行程が演目に盛り込まれていると。

坂本:「花の祭文」の中にはこの要素が源流として入っている。

中西:この「花の祭文」は編曲した当初は「神勧請」から始まる三部構成でしたよね。

坂本:三部でしたけれども、「神勧請」を除くと、あとの祭文で言っている内容は大体同じなんですね。

中西:「かんきちの額にあてしかうかづら(神鬘)・・・」と、最後の祭文は冥途に入って行く時の装束なんかを読みあげている祭文でしたよね。

坂本:「花の本源祭文」なんかはそうですね。

桜井:何とかの冒険じゃないけれども、ある人が旅をして、まず死の世界に入る・・・

坂本:まぁ、死出の旅ですね。それも死んで生まれ変わると言うよりも、生きながらにして生まれ変わり、生きながらの浄土を再生するという、そのことによって差別を滅する。

桜井:なにかその生まれ変わる時のきっかけとか事件みたいなものはあるんですか?チベットの『死者の書』でも一回死んでからそこにいろんな世界が現れてくるでしょう。その中を自分が歩いて行って光明みたいなところの中へと至ると言うような話があるってことですかね?

坂本:そうですね。「花の本源祭文」ですと、死出の旅でまず三途の川があっていろんな困難を乗り越えて渡る。そうするとこんど「びらん樹」という木が生えていて、それは自分の身に付けた衣服を掛ける木なんだけど、そこから「黄金のまんだら堂」というのに入る。そこには「またしろうぶつ」という行者がいて、その行者へ法華経を渡すのかな。そうしてそこから出てくると生きながらにして再生するという。

中西:はぁ、その道のりが描かれているということね。その後の世界、生まれ変わった後の世界と言うのは描かれているの?それとも描かれないまま可能性が可能性のまま担保されているとか。

坂本:若子の注連祭文がそうした再生後の世界を描いた祭文とも言えなくもないかも知れませんね。

桜井:あるんだ?いや、たとえばDランドに行って、普段は社会的圧力とかいろいろと叶わない自分があるのに、そこへ入った途端に乗り物とかいろんなことがあって、自分の魂が解放されていって自由を得る。ここではミッキーの格好をしようが子供みたいな服を着ていても構わなくって、でも帰りの電車に乗ったら「あ、自分ミッキーの耳かぶってた」みたいなことからだんだんと普段の服にと戻り、自分の家にただいまって帰って、それで社会の中へと戻って行くというような構図ってあるじゃないですか。で、神楽もそれが始まる前までは何村の誰それということで義務やいろんな縛りがあったり、村の外にいる人間だという意味で村の中に入れなかったり、遠慮をして行けない場所があったりするのが、神楽が行われることで一緒の場で踊ったり騒いだりと、精神的にも解き放たれる。そしてこれが終わると、またもとの社会内の位置に戻って話し方や振る舞いも全部元通りにしなくてはいけないみたいな、そういうものの中に一瞬の解放として神楽が位置づけられている。

中西:あぁ、おもしろいね。ユートピアみたいなものを求める過程を疑似的に演出するその瞬間だけが実はそのユートピア的な空間であって、それ以外は浮き世としての現実的な空間がずーっと有り続けるわけね。ある瞬間だけその空間と往還するのね。まぁ、それがよく言われるガス抜きを定住的な社会にもたらしていくと。

桜井:うん。日本って今でも言いたい事言ったりとかしちゃダメじゃないですか。今この場所で一つの話題に対してそうだよね、そうだよね・・・って言ったりする。たとえばアメリカとか別の国では三人で話しててもここまでまとまらないよねって言う具合で、日本人はお行儀がよくできてるんですよね、相当。で、そういう空間の中で普段は生きていて、いざ祭りとなると皆狂ったようにやる。

坂本:今でも日常と非日常があるというか。

桜井:差別とか辛い生活をしているところほど激しい祭りを行ったりするとか。アメリカとかでもお祭りはあるけれどもここまで異常なものを求めていない気がする。クリスマスでも、ハロウィンでも、わりとスマートじゃないですか、異常な物というか、激しい何かを求めていないような印象がある。

中西:どうなんだろ。お祭りなんかを支えるような地域共同体の単位というか、まとまりの在り方が違うのかしら。なにがその違いの根本にあるんだろう。イギリスではどうでしょ。

坂本:お祭りはもちろんヨーロッパでも何処でも世界中あるわけだけれども。

中西:たとえばお祭りと見るかどうかはさておき、シャリバリみたいなものがあるじゃないですか。地主とか、気にくわない人の家に、ある時その地域の人が皆で乗り込んでいって、もの壊したり誰か連れ去っちゃうような、集団熱狂みたいな(笑)。

桜井:それは普段辛い生活を強いられてるんでしょう。

中西:まあね。根っこのところは。

桜井:あの、バリ島のケチャの物語もそうだし、ワヤンは今でも夜通しやるじゃないですか。

坂本:それは実際フィールドワークに行かれたんですか?

桜井:あ、ワヤン・クリは見たし、それとランダの話というのも、ほんとにトランスして戻らなくなるのを実際目の前で見て、その人が運ばれて行って、やっぱりお坊さんというか、そういう役割の人が、毎度の分りきったことのように冷静にお祈りをしたりして戻すみたいな。誰かが狂う程にやらないと気が済まない。バリとかも村の中で何処の二男が何をして、三男は何処そこ行ってどうやって帰ってきたとか、誰が何をしてるのか皆知っているみたいな。全部知れ渡っているくらい、プライベートがないという感じの状態。そうなると普段の自分の行動を皆ものすごく制御するよね。で、お祭りだとなると急に誰か気が狂う人が出るほどやらないと気が済まないみたいな。

中西:そっか、どう言ったらいいんだろ。つまらない事というか、よく言われることでいえば、それがガス抜きになってると言うわけですね。

桜井:そう(笑)

中西:でも、狂うって言うのは何かあるのかしら?
桜井:解放でしょう。

中西:その狂った人が出ることで、此れを見る誰かも安心するの?

桜井:自分もそうなる可能性があることを、社会の中で押さえる、という決まりごとの中で、それを超えてしまう人に、自分のこともゆだねて、これを鏡像として自分の代わりに狂ってくれたと・・・

中西:それで解放に準じたなにかを得ると。

桜井:うん、だからバリとか神楽とかの芸能人がものすごい大声を上げたりとか、気が狂ったような舞を見せることによって、見るものも相乗的に解放される。

神がかりと歌、そして神の性

坂本:ま、その辺は神がかりというか、シャーマニスティック・トランスとやっぱり接点があるから。歌の源流というのがだいたいそのあたりにあるっていう説がありますね。歌の起源と言うのを見て行くと、神がかりとか託宣のあたりから派生していると。

桜井:うん。託宣というか神掛ることによって、会話の文章からポエティックな文章が生まれ、そのポエティックな文章が会話口調からさらに音の高さを伴ったものになって行くというのが、神掛りの証みたいな。

中西:あ、段階があるわけ?

桜井:文語調というかポエティックなことばにかわるとか、普段使わないような古い言葉を使うとか、五七五で定まっていたりとか、韻を踏んだことばがバーンと出て来て、通常の会話から変化する。会話の様に音の高さが特に指定されていないものから、音の高さがきちんと決まって、それを伸ばしたり短くしたり、音の高さを一音ごとに変えたりとかして、それを神のプレゼントというか下ってきたものとしてみるという。

中西:あ、それは面白いね。プラトン全集にイオンというホメロス歌いが出てくる。この人はホメロス歌いの大会で優勝するんだけど、上手く歌いあげたその所以はどこから来たものかと言ったら、全てムゥサという神の神殿の庭から下りてきたものなんだって言うの。最高の評価される芸能の面白さやなんかというのは演唱者の人為的なものではなくって、神から下りてきたものだという。あと、聞いていて思い出したんですが、今、日常の中にある言語が決まった音の高さや何かを伴って歌の様になっていった時にはすでに日常ある言葉とは違うものになっているという。で、花祭りで面白いと思ったことがあって、湯立てをする時の歌で、「こぎひろい」といったかな、湯立てをする時に使うものを水、釜とか火打ちや何かを「この水は七つの滝をこえてきた水ですよ」と言う具合に一々歌でほめると言うことがある。そういう風に歌でほめることによって日常にあるものが特殊な物にと変形していく。歌のフィルターを通して神事につかうような特殊な物にと変換していく。さっきの日常の会話が歌にとなっていく過程で言葉が特殊なものになって行くのではなくって、逆説的に歌をつかうことによって日常のものを特殊化させるような、そういう機能的な形で歌が使われているというのが面白くって印象に残ってるんです。たぶんこれは機能的だから、ちょっと時代的には下がったものなんだろうなと、今の話から創造されても来るんだけれども。

坂本:まぁ、花祭りだとさっきの神がかりにあたいする祭文が「降居の遊び祭文」になりますね。「降居の遊び祭文」は資料としては残っているんだけれども、やっぱりいろんな祭文をアットランダムに唱えると言うものであって、一貫とした祭文であるというよりは、それこそ歌状態で託宣に近くて、だから解読しきれない。太夫なんかが天蓋を頭にかぶってこれを唱えたのだろうという推測があります。

中西:あの、大元神楽とかも神掛りするよね。荒神神楽とかね。

坂本:大元神楽は天蓋を通して神掛るというのがありますね。荒神神楽だと「鱗おろし」といって縄をはって、荒神は蛇体で、この縄が依代になっていて、その竜のうろこを刀でおろすというのがあって、そこで託宣する。

中西:あれ、「ごーやごーさま」とか言って長い布を振って、それが体に巻きつくと言うのはどの段階でしたかね。それで三方に米を乗せて、これを撒いたりしてその年の占いをするとかね。

桜井:あ、私の記憶だと比婆荒神神楽は縄に寄りかかると神がかって皆に連れ去られるとか。
中西:あ、そうだ、つれてかれる。

桜井:で大元神楽をビデオで見た時には、神がかった人に「この人神がかった」と言って人が来て・・・

坂本:そうそう。私も大元神楽の神ががり託宣は2000年に、荒神神楽の鱗おろしは2003年にくらいに現地で生で見てます。

桜井:あ、じゃぁあれを見たんだ。天蓋が揺れて、太夫さんが急にそこの中に突入して、それを神職とかそういう人たちがばーっと取り押さえに来て、ぐるぐる回って、ことしのなんとかは~・・・とか言って(笑)。

坂本:そうですね。

桜井:あれはね、ぱっと声を聞いた瞬間に、あ、神がかってると、わかる声を太夫さんが出しましたね。あれは何なんだろう。声も違う。

坂本:まぁ、別な人格になるというか。

桜井:この人は普通じゃないってわかる声というか。

坂本:それこそある種の歌の起源と言うか、歌状態というか。>

中西:そういうのを「歌状態」というのか。

桜井:もう朗々と歌うとか、そういうのではないんだけれども、声を聞いた時に、この人は神がかってるというような・・・

坂本:それで人格的には太夫は男性にも女性にもなるということがある。比婆の荒神神楽とかで聞いたことがあるですけどね。託宣の時に男の太夫が女子になって託宣すると言う、そこで人格が変成女子するという。

桜井:そこで性を超えた存在になるのかな。

坂本:うん、男性でも女性でもないような。

中西:それは確かに、アジアのシャーマニズムで、シャーマン達にはわりとそういうのは聞きますね。韓国でもタイでも男性の拝み屋なんだけれども女装しているとかね。

桜井:あ、シベリアでも男の人は女装する。

坂本:巫女衣装自体がもともと男性の太夫の衣装ですね。いざなぎ流の大神楽があるんだけれど、その衣装は巫女衣装で、男の太夫が此れを着ていて、女装をしてやっていたと見ることもできますね。

桜井:あの白拍子は水干着て烏帽子かぶるんですけど、稚児も同じ格好をしてるんですよね。水干で烏帽子で薄化粧をする格好で。だからなんというか男でも女でもないっていうそういう衣装があるのかなって。稚児と白拍子が同じ格好をするというのは、この人は社会の中で男の役と女の役とをして、男の人と女の人が出逢って結婚してっていう社会生活の中の人間の在り方ではなくって、女でも男でもない非社会の人間として芸能をやっているという・・・

中西:ほぉ、もうそれ自体が性別を超えて特殊な存在なんだ。神性稚児みたいなのと一緒だねぇ。遊女もそう。へぇ。

桜井:うん。それで仏や菩薩の化身というのが稚児とか白拍子のステータスって言うか。それで名前も「仏」とか「千手」とか、自分が菩薩と言ってるような名前を持つんですよね。

中西:はぁ、そういうのがじゃぁ、流れ流れて江口君みたいなものにも伝統的に潜伏してるのかしら。あれは普賢菩薩の化身だって。まぁ、これは遊女ですけれども。

桜井:うん、それはそうでしょう。ただ江口にはいわゆる性を超えたコスチュームはあったか分らないけれども。とにかく白拍子は水干と烏帽子。烏帽子は元服した人がかぶるものですけれども、だけど、男とか女とか、子孫とか家族制度とか、そういう全てから逸脱した人間のスタイルでもあるんですよね。稚児の場合は元服前の髪型であったりもするし。

中西:まぁ、そのあたりは遊行民、漂泊民とか言われるような人々の位相とも接近しているのだと思いますけれども・・・

坂本:まぁ芸能もだいたいそこらへんから出て来ていると言われますね。

桜井:基本的に非課税者。

中西:非課税者。それはかつての社会での非定住民と言うことですよね。

桜井:だから、社会に貨幣的に貢献していないわけですよ。だから年貢などを納めない代わりにそれに対する保護とかなにもないわけでしょ。住む家もないし。非課税所得者の生き方みたいなものでもあるから、だから、課税所得者からは差別をされるんだよね。

中西:坂本さん、坂本さんはだからもう税金払わなくていいってことじゃない(笑)。どうどうとゆすって生きていける。これはもう坂本さんは芸能者として生きて行くよりほかないということだよね(笑)。

坂本:いや(笑)。

中西:あ、三人で企画やりましょうって誘った時、桜井さん「坂本さんはそのものが神楽じゃない」って言ったじゃないですか、あれこういうこと?

桜井:いや、私最初に坂本さんのライブを聴きに行ったときに、あの時は結構現代音楽的なアプローチで曲を作ってたと思うんですよ。もっとこんなん(「牛頭十字架変身島」)じゃなくって・・・

中西:こんなん(笑)。でも、わりと現代音楽から坂本さんは始まってるよね。

坂本:まぁ、入りはね。

桜井:もっと現代音楽的な作品をやってたんだけど、もう声を聞いた時にそれこそ、荒神神楽とか託宣している人とおんなじ声だから。

中西:この声が。ほぉ。

桜井:だから歌手じゃないんですよ。ベルカント習って声を出してますとか、そういうメソードから作り上げた音楽じゃなくって、もう荒神神楽の太夫さんみたいな。で、よっぽど一杯そういうものを聴いてるんだろうなっと思った。

中西:分るんだなぁ。声ちょっと特殊でもあるからねぇ。

桜井:だって、駅前とかで歌ってる子たち一人捕まえても、ア、この子何聞いてるなってわかるじゃないですか。

中西:わかるねぇ。皆歌いたい歌を歌ってる人にと寄せて行くからね。

桜井:そう。ア、この人何好きなんだなぁ、この人はこういうの好きなんだなぁという全部わかる中で、あ、この人は神楽好きなんだなぁって(笑)。

中西:ほんと!?さすが音楽の先生だね(笑)。

桜井:だって神楽が好きなミュージシャンなんて私見たことがないよ。神楽が好きで神楽の声が出せる人はいないよ。

中西:もう神楽の中にのめっちゃってんだね。こういう評価してくれるひとがあるんだなぁ。

坂本:現代のトランス・ジェンダーの琵琶法師みたいだって最近は言われますね(笑)。ここ一二年大正琴をつかってますけど、大正琴が琵琶みたいって(笑)。

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